Masakazu Yoshida

Undramaticな日常でもいいじゃないか

2016-01-02 13:00

SNSのタイムラインは「素敵な生活」で満ちています。

私が観測している範囲でという限定付きですが、 SNSを通してみる「世間」では、 みんなキラキラした日常をおくっているか、 もしくは、そんなdramaticな非日常が暗黙の理想(いいね!)として共有されてるようです。

正直なところ、うらやましくないといえば嘘になるけれども、 個人的な信条としては、 undramaticな日常でもいいんじゃないかと考えています。 私にとっては「自由に生きること」が第一優先なので、 キラキラしたイベントは別になくてもいいと割切っています。

煎じ詰めると、有限のお金と時間の使い道の問題です。

たとえば、生活レベルを低く保っていれば、 経済的な自由度は高くなります。 収入が増えれば、貯蓄や投資にまわせる資金が増えますし、 収入が減れば減ったで、その状態でも普通に生活ができます。 経済的な心配ごとが少なくてすみますし、 なりより経済的な理由で不本意な選択を強制されずにすみます。

また、時間の面でも選択と集中が必要です。 肝心の才能がソコソコしかない場合、 「山月記」の李徴がいうように(*)、 「乏しい才能」しかない者はそれを「専一に磨く」しかないのです。 そのためには時間とお金が必要です。

まあ、万人向けではないので、おすすめはできないですが、 undramaticな日常でもいいという理由について少しだけ考えてみました。

(*) 中島敦「山月記」から引用:

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、 何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、 事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、 刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。 己よりも遙かに乏しい才能でありながら、 それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。 虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。 それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。